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「チャレンジ大大阪」へのメッセージ

仲野 徹(大阪大学医学部大学院教授)

仲野先生からメッセージを頂きました。ご自身のツイッターでは「浪速大学医学部病理学教授」と書かれていますが、ホームページを見ると科学オンチの私は、非常に「難しい」ことを研究されているんだと思ってしまいます。ところがお会いするとそのギャップに多くの人が驚かれ、先生ご自身もそれを楽しんでおられるようです。「めざすはお笑い系研究者」とおっしゃる所以にも納得。

去年春に岩波新書「エピジェネティクス-新しい生命像をえがく」を出版され、増刷を重ねていることに「なんでこんな難しい本が売れるんやろか」とおっしゃっていたことも先生らしさのエピソードです。EP細胞騒ぎのときにはマスコミにも度々出ておられました。大阪生まれ、大阪育ち、生粋の浪速っ子、つい先日は趣味の義太夫発表会、山本能楽堂で晴れ舞台を務められました。仲野先生の「大大阪」への思いです。短文をお願いしますといったのに素敵なエッセイを頂きました。

大きな大阪より大らかな大阪を

 こてこての大阪市民である。それも下町-人によっては場末とも言う-、旭区千林に生を受けて60年近く、ドイツに滞在した2年間ほどをのぞき、ずっと同じ場所に住んでいる。空襲にあわなかった路地の多い街並みは昔のままだし、良く言えば伝統的、悪く言えば流動性の低い街である。還暦近くになっても、近所のおばさんたちからはいまだに『ちゃん』付けで呼ばれるし、居酒屋に入れば昔の同級生の顔が見える。

しかし、物心がついて半世紀あまり、さすがに大きく変わったこともある。子供のころは、淀川に平太の渡しがあって国道には市電が走っていたけれど、豊里大橋と地下鉄にとって変わられた。かつてはスーパーが三軒もあったが、今やどれもなく、うち二つの跡地はパチンコ店になっている。ダイエー発祥の地として知られた商店街も、昔ほどの賑わいはなく、地元の人が経営する小商いのお店が減り、チェーン店が増えてきている。

大正区出身の芥川賞作家・柴崎友香さんの本に面白いことが書いてあった。東京はなんでも大きいけど、大阪に似たところもある、という話。たとえば、東京駅界隈が大きな梅田で、上野が大きな天王寺。いちばん笑えたのは、池袋が大きな京橋というところ。言い得て妙である。仕事がら、月に二回程度は東京へ出張するが、行くのはオフィス街ばかりなので、東京にも千林のような街があるかどうかは知らない。しかし、まさかスケールアップした千林などないだろう。あったらおもろいかもしれんけど。

人が住み、人が生活する街というのは、そういうものだろう。ある程度のスケールを越えてもあまり意味がない。日常生活する半径など、昔からそう大きくは変わるまい。千林になる前、東成郡古市村だった大大阪の時代から、住む人たちにとって同じような気分の街だったのではないだろうかと想像している。

大大阪という言葉にはなんともいえないノスタルジックないい響きがある。しかし、天王寺がいくらがんばったところで上野になれないのとおなじで、町の規模も成り立ちも性質も違うのだから、大阪が大きくなって、東京に並び立つなどというのは幻想だ。その意味で、制度的な大大阪などというものに意味はなかろう。大大阪というならば、大きな大阪よりも、大らかな大阪をめざすというのはどうだろう。

巷間思われているほどヒョウ柄服のおばさんがたくさん生息しているわけではないけれど、千林は大阪のおばさんたちの意見の標準木で、と、MBSテレビ『ちちんぷいぷい』で紹介されるのを聞くと、なるほどうまいこというなぁと感心する。たぶん、千林商店街で意見を集めたら、こんな住みやすい街ありませんで、というのが多数意見だ。好きやから住んでいる。それが大阪の下町に住む人たちの標準的な意見のような気がする。

絆といったたいそうなものではない。連帯感というほど立派なものでもない。意識もされずに、ゆるゆるとつながってきた程度のものがずっと続いているというところだろうか。あるものを無理になくして、あぁあれが肝心要であったのだと気づいても、取り返しがききはしない。なにも変えてはいけないというのではない。古くからの流れを途切れさせることなく、大阪はええとこやで、という気持ちをいつまでも持ち続けることができるような、大らかな大阪にずっと住み続けたい。

仲野先生、ありがとうございました。

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