控訴審判決を受けて
2017.01.31
今日、極めて残念な結果になった名誉棄損訴訟の控訴審判決でしたが、控訴にあたって裁判所に提出した陳述書を『記録』の意味でもアップします。
こうした思いを聞き届けられなかったわけですが、在任中、多くの大阪市を愛する人たち、大阪市を自分たちの手で良くしたいと思っておられた人たちの思いも含めて書いたものです。
かなり長文になりますが、ご興味があればご覧ください。
陳 述 書
第1 はじめに
1 私は、第一審の判決を受けて信じられない思いでしたが、判決理由を読むと、今回の橋下氏の発言について、「本件各発言の趣旨・内容は,領収書を取得しないで町内会に現金を配る制度の問題点を述べたものと理解するのが相当であり,このような事実を摘示することにより,間接的にそのような大阪市を解体して大阪都構想を実現する必要があるということを意見乃至論評として表明されたもの」旨の判断を下されたことが残念でなりません。
私は、大阪市長ではありましたが、民間人出身であり、法律に関しても素人ですので、一般人の感覚は失っていないと思います。
一般人の感覚では、橋下氏の各発言は、どう考えても第一審判決が述べたようには到底解釈できないと思います。素人ながら、何か、結論が先にあり、どうしても裁判官が決めた結論に導きたいがゆえの、論理や解釈の飛躍があるように感じました。裁判官がそのように解釈された理由について、腑に落ちるような理由は何も書かれていませんでした。
2 第一審の判決は、「選挙の年に、補助金制度を領収書の不要な交付金制度に変更した」という事実を前提に書かれています。
第一審の裁判官は、私が殊更に、選挙の年に突如として交付金の制度変更を行ったという心証のもとに判決を書かれたように感じました。
しかし、事実や背景は全く異なるのです。
私は、本陳述書により、交付金制度とその制度変更の背景、及び私が大阪市長として在任中に何に重点を置いていたかを陳述することで、制度変更の理由や合理性を説明したいと思います。
また、橋下氏の本件各発言がなされた当時の政治的背景、私が本訴訟を提起した動機、すなわち、私以外にも当該発言によって名誉を傷つけられた人たちがいることを明らかにしたいと思います。
第2 本件各発言に至る政治的背景
1 私は、2007年(平成19年)12月から大阪市長として在任しておりましたが、2011年(平成23年)11月の再選を目指した市長選挙で橋下氏に敗れました。
以降は、政策団体の代表として、様々なシンポジウムを主催したり、セミナーを開催したりしておりました。
2015年(平成27年)の5月17日に大阪都構想の是非を問う住民投票が行われることとなり、私は、2014年(平成26年)の秋に設立した個人後援会(以下「翔の会」といいます)を通じて大阪都構想への反対運動を行っておりました。
翔の会は、組織、団体を超えた市民による応援を得て、私が在任中に目指した「市民協働」を再び大阪にもたらしたいという思いの中で、私の政治的信念のもとに活動をしており、チラシを23万枚作成して街頭で配布したり、インターネットを通じてご承諾を頂いた店舗や家庭に「反対票を」というポスターを張ってもらう活動をしたりしておりました。
街頭でのチラシ配り活動は、住民投票日の100日前にあたる2月7日、東住吉区の駒川商店街を皮切りに、毎週末ボランティアを通じて市内各所で活動しました。
上記住民投票は、大阪市の世論を二分する接戦となっており、世論調査でも賛成と反対が拮抗しており、どちらが勝つか分からないような状況でした。
私の上記活動はそれなりの手ごたえを感じており、賛成派である橋下氏及び維新の会に取ってみれば、苦々しいものであったに違いありません。
2 そのような政治状況の最中に、今回提訴した橋下氏の一連の発言がなされたのです。
橋下氏の発言直後には、私の元にすぐには連絡が来なかったのですが、3月の上旬になって、私を応援してくれている人から橋下氏がタウンミーティングで「平松さんは選挙の際に町内会役員に100万円配った。領収書もなしに、何に使うか分からない」という発言をしているという知らせがあり、また、維新の会のホームページに当該発言全てがアップされていることが分かりました。
これを知った私の周囲の人々は騒然となり、また、地域の役員の方から、「橋下さんは、前回の選挙の際に平松さんが町内会の役員に100万円を配ったと言っているが、お宅も貰ったのか」と言われ、もちろん貰ってもいないし、大阪市のために活動してきたのに、そのようなことを言われて悔しいといった声を聞くようになりました。
私が今回の訴訟を提起した理由は控訴理由書に書いていただいた通りですが、加えて、後述する訴訟提起直後の記者会見でも述べましたとおり、私自身の名誉を守るということに加えて、今回の橋下氏の各発言は、大阪市のために一生懸命活動をされてきた地域の役員の人たちの名誉を回復しなければならないとの思いがあるからなのです。
時間や労力を費やし、ボランティアで地域活動を担ってこられた役員の方々は、橋下氏の発言により、貰ってもいない現金100万円を貰ったことにされており、地域住民から疑心暗鬼の目で見られているのです。
このようなことが許されてよいのでしょうか。
私自身の名誉だけであれば、私が我慢すればよい話なのかもしれません。しかし、今回は、名もなき地域の役員の方々の名誉も掛かっており、真実がどうであったのかをきちんと訴訟で認定して頂かなければ、役員の方々の名誉は回復できません。
私は、このような動機で今回の訴訟を提起し、控訴に至っているのです。
3 なお、2015年3月20日に今回の訴訟提起の記者会見をした際、私は以下のようなコメントをしました。以下抜粋引用します。
「この発言は、私だけの問題ではなく、地域を何とか守りたいと市政に協力してくださった多くの地域の皆様をも愚弄するものであり、市政に協力されている善意の人たちをも分断する結果を生むことになるという側面も看過できません。」
「今回の発言を放置することは、単に大阪市を廃止・解体したいという維新の会の思惑を広げるだけでなく、「自らの街を自らの手で」を合言葉に活動してくださっている多くの大阪人を馬鹿にしたものであるということをわかって頂きたいという側面もあることを付け加えさせていただきます。」
4 訴訟提起の当初から、私の思いは変わっていません。
第3 被告の誹謗中傷に晒されてきたこと
1 これまでも橋下氏から、タウンミーティング(以下TM)と称し、私の自宅マンションの前で、「すぐ近くに住んでいる」としたうえで、「平松さんは何も仕事をしていなかった。この近くに住んでいるんですよね。平松さーん、出てきてください。公開討論しましょう。」(甲35、甲36の1,2、甲37をご覧ください)などと、拡声器を使って大きな声で、多くの聴衆の前にして得意気に演説している姿をネットで確認しました。
私は、その際自宅におらず、後からそれを聞いて、橋下氏に憤りを感じましたが、ぐっと我慢し、やり過ごしました。
しかし、その際に在宅していた私の妻は、季節が夏であったこともあり、開けていた窓から容赦なく降り注ぐ中傷の言葉にひどく傷つき、外出の際に人目を気にしなければならない、うつ状態に追い込まれたこともありました。
橋下氏の発言は、一般人にとっては凶器であり、まさに言葉の暴力なのです。
2 本件訴訟とは直接関係ないようにも見えるかもしれませんが、橋下氏は、民主主義の根幹である価値観の多様性を容認出来ない方です。
自分の考えに反対する者、その他自分の気に入らない者を、ツイッターその他さまざまなメディアを通じて、執拗に攻撃を繰り返し、汚い言葉を使って平気で人を傷つけています。
表現の自由と言いますが、限度があってしかるべきです。
本訴訟の各発言も、純粋に大阪都構想を実現したいという気持ちからではなく、上記のように反対運動を展開する私に対する敵愾心から出たものなのです。
上記の政治的及び個人的な背景事情をご理解頂かなければ、裁判官におかれましては、橋下氏がなにゆえ今回のような発言をしたのかをご理解頂けなかったのではないかと存じます。
3 なお、理由は定かではありませんが、この際(上記私の自宅前で行ったもの)のTMの模様は、維新の会のホームページに一旦はアップされたものの、その後リンクが外されています。
しかし、一旦ネットに流れたものは当該部分を編集され、維新とは直接関係のないサイトで誰でも見られるようになっており、私の妻の心労はその後も継続しています。
第4 市民協働を進めてきた私にとって
1 私が今回の提訴にあたってどうしても看過できなかったのは、上記のとおり、私の名誉だけでなく、地域の役員の方々の名誉も棄損するものであったからです。
橋下氏は、当時現職市長であり、市長就任後に当該制度を廃止した人物でありますから、交付金及び補助金制度の内容は熟知していたことは明らかです。
また、私が市長として交付金制度の変更を行った際には、事前に大阪市議会で議論されており、維新の会の市議会議員の方からは、むしろ制度変更を進めるのが適切である旨の質問も受けておりました。
橋下氏は、その大阪維新の会の代表であったのですから、私の在任時の制度変更の趣旨・目的についても関与し、詳細を知っていたのは明らかなのです。
にも拘わらず、あえて本件のような明らかな虚偽の内容の発言を繰り返し、インターネット上に掲載したこと、このことを断じて許す訳にはいかないのです。
2 最近の東京都知事の話にもありますように、政治不信が進み、政治家の質が問われている現在、一般市民の政治家を見る目は、相当厳しくなっています。
一般の視聴者、聴衆が「自身の選挙の時にお金を配った」という言葉を、言葉の信ぴょう性が高い現職の市長から聞いたとき、普通は、前市長である私が、違法もしくは違法すれすれの「買収」行為を行ったと受け止めるのではないでしょうか。
実際、一般市民の方がそのように受け止めて、ツイッターに発信、リプライしたりしている人もいたことは、既に私から提出している証拠から明らかです。
そして、このような内容は、人々の関心を呼びますので、人づて、口づてに伝わっていきます。原情報に様々な尾ひれがついて当初とは違う形で広がることも容易に想定されます。
私は大阪市民であり、今後しばらくは大阪市から出るつもりはなく、私や家族が大阪市民として平穏に暮らしていくが困難となりました。
また、私にとっては、選挙の際に買収行為を行ったといったイメージを大阪市民の方に持たれることは、今後何らかの政治的表現を行う際に制約となることは明らかであり、私の政治生命を絶たれることに等しいのです。
第5 地域振興会との活動
1 大阪市の地域振興会という組織は戦後、赤十字奉仕団を母体とし、町会単位を集約し、大都市でありながら行政が届かない地域活動をやって頂くことに税金から補助金、交付金をお渡しして地域の需要に見合う幅広い活動をされている組織です。
2 大阪市地域振興会のホームページには、以下のような記載があります。以下抜粋引用。
- “私たちのまちは私たちの手で”が合言葉です。ご近所のお付き合いはもちろん、楽しい行事を催し、地域の活動に協力することを通じて、住みよいまちづくりに努めているのが地域振興会です。他の市町村では「自治会」「町内会」などの名称で呼ばれることが多いようです。
⑵ 大阪市赤十字奉仕団が母体
昭和22年、災害救助法の制定に伴い、日本赤十字社は災害救助などの事業を行う「赤十字奉仕団」の結成を全国に呼びかけました。
これをうけて、大阪市では各区で赤十字奉仕団が結成され、さらに昭和24年にはその連合体として「大阪市赤十字奉仕団」ができました。
そして災害救助や戦後復興などに大きな役割を果たしてきました。
⑶ 大阪市地域振興会がスタート
赤十字奉仕団への加入が地域の隅々まで及んだことから、行政広報などの行政協力活動も多くなりました。
さらに、戦後復興も終わり、都市化が進む中で、地域における新たなコミュニティづくりが求められるようになりました。そこで、新たなコミュニティづくりを担う組織として、大阪市赤十字奉仕団と構成員・役員を同じくする一体の組織として、昭和50年6月に「大阪市地域振興会」が結成されました。
地域振興会は、その目的として、①コミュニティづくり、②日本赤十字社事業への協力、③大阪市政・区政への協力という3つの活動を掲げ、市民の力によるまちづくりを進めてきています。
3 こうした歴史のある地域振興会ですが、大阪市の場合、集合住宅の増加と共に地縁が薄くなったことや、仕事の都合上住んでいるだけという人たちも当然ながら少なくありません。
そうしたことから役員の成り手不足や高齢化が進んでいる一方で、不明朗な会計を市民オンブズマンから指摘され、それがニュースになることもありました。
私の市政の基本に「市民協働」を置いたのは、全国の市町村が財政難に見舞われる中で、地域の担い手と共に疲弊した地方自治体を住民の力を借りながら安心・安全の町づくりを目指すことが基本だと思ったからです。
私は、市長に就任以来「市民協働チーム」を編成し、各地域で様々な意見を聞く機会を作ろうと、在任中、570回ほどの会議を現場で開催し、様々な意見交換を実施しました。
ボランティアの方々の様々な活動現場に足を運び、直接市民からの思いを聞くことで、「お役所仕事」といわれる市民との距離感を民間出身ならではのフットワークで乗り越えようとしたのです。
4 そうした活動をしていると、市民の側から様々な意見を耳にします。
例えば、地域の祭りに出かけたときにAという地域グループとBという地域グループが同じ行事を担当しているのに、事業を委託した市の局によって待遇が違うと苦情を受けたこともありました(あちらはお茶を買ってもいいのに、こちらはダメだといわれるといった細々としたことを含みます)。
大阪市の場合、様々な市政協力団体が多数あり、同種の事業を市民にお願いするにも依頼局が違うと往々にしてそうしたことがあり、実際に活動している市民からの不平や不満が多く聞かれました。
そのような中、ある会議の席上で印象に残ったのが「青色防犯パトロール」をしているグループの一人から「市長、一時間ほどのボランティアをしてそれが終わるとガソリンスタンドに寄って給油し、その領収書をいちいち提出して支払いを受けるという方法を知っているか」「ボランティアをやりながら、余りにも細部にこだわった運営の在り方が、現在ボランティアを担っている人達の負担になっていること、新規に始めたいという人のブレーキになることを分かってほしい」といった話が印象に残りました。
市民に協力を依頼しながら、杓子定規に運営していたのでは、こうした善意の人たちを戸惑わせるだけだという思いから、その後の市政運営にあたり、様々な補助金、交付金を受けている団体とそれを交付している局の実態調査を行い、有識者会議での議論も踏まえながら、これからの地域を守ってくれる市民団体と行政の在り方を模索したわけです。
第6 終わりに
「領収書もなしに100万円、選挙の時に全町会に配った、何に使ってもいい。」
そんなことは私の知る限り大阪市ではありえませんし、出所が税金とすれば総額いくらになり、それがどこに配られたものであるかは、本来、橋下氏側が証明しなければならないのではないでしょうか。
私がもし本当に100万円を領収書も無しに配ったという事実があるなら、第一審では、橋下氏は、当該発言内容を立証する証拠を提出し、橋下氏は、そのような制度ではダメだという趣旨の発言であったと主張するのがスジであったのではないかと思います。第一審では、橋下氏側は、発言の内容の真偽が争点とならないよう、巧妙に訴訟が展開されてきたように感じました。
裁判官の皆さまには、その知名度ゆえ社会的影響力が大きく、かつ当時現職の大阪市長であった橋下氏が行った発言により、私の名誉が毀損され、かつその回復する手段が閉ざされた状態であること、地域で懸命にボランティアを続けてこられた方たちの連帯をも阻害されていることをご理解いただき、是非とも、私及び地域役員の方々の名誉を回復する機会を認めて頂きたく、ここに陳述致します。
以上